海の水を汲もうと思うと

今は情報化社会と言われていて、
さらにネットの普及により、
個人個人の世界が広がったように
感じる状況があるかな。

これは同時に人の感覚を鈍感にしてしまう
傾向があるようにも思うケド。

どうなのかな。

確かに、便利に知ることはできるようになった。

一々図書館に行かなくても書店に行かなくても、
手軽に知ることができる情報は増えたと思う。

けど、実際人が手に出来る情報っていうのは、
どれほどのものなのかな…。

知識は人に役立つように活用してこその
知識やと思うから。

そう考えると、毎日毎日、誰かの垂れ流しの
情報を得て、情報通になったとしても、

だから何?ってことかもしれへん。

むしろ、得た知識を以って、
自分はどうできるのか、何ができるのか、
何をしたいのか、何をするべきなのか、
みたいなところかな、大切なのは。

それは、世の中に対してどう貢献
できるのか、ってことで。

例えば沢山のことを知らなくても。

自分が自分らしく生きていくための
知識を持ち、周囲を幸せにできる
生き方をしている人は、よほど
幸せで素晴らしい、って思うねん。

自分の周囲の世界がどれ程広いかが重要ではなく、
自分の内の世界がどれ程広いか、という事のほうが
重要ではないかと思うなぁ。

海の水を汲もうと思ったとして。

持ってるのがバケツなのかコップなのかで、
汲める量が違うのと同じことやねん。

で、自分に持てる重さっていうのは、
その人の体力にも関係するし。

さらにどれほど大きな器をもってしても
海そのものを汲むことはできない。

仮にそうできる器があるとするなら、
もはや、海を汲む必要がないという…(笑)。

大海を泳いでみても、
海そのものを得ているということでもない。

まぁ、情報の中にいる自分、っていうのは、
このことと似てると思うなぁ。

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