極論を言えば、確かに人は一人では
自己として存在しようがないねん。
外部との接触を断ち、「孤独に生きている」人でさえ。
接触を絶つ先=周囲の人が必要やし、
孤独(独りぼっち)でありえるためには、
やはり周囲の民衆みたいなのが必要かな、と。
つまり自己が「孤独である」と認識するためには、
孤独でない環境=対極を存在させる必要がる、
というわけで。
なので、自己が周囲と共にある以上、
周囲が存在し、そこから発せられる
何らかの刺激にさらされる日常が
平常の人生って感じかな。
なのでまぁ、周囲からの刺激を受けるということは
「当たり前」過ぎる話ということや。
ただ、この「当たり前」がクセモノだったりするねん。
要は、慣れきった環境に「幻想」が加わるとやっかい、
ということや。
つまり、
「当たり前=沢山あるはず=もしかしてもっと
良いことがあるのでは=それが欲しい=それをクレクレ」
みたいな図式を持つ人が増えつつあるということや。
ちなみにこのほとんどが、恐ろしい事に自覚のない
無意識下の話やったりする。
これには最近の文化も少なからず影響してるやろうな。
便利な文明の利器とは、あくまで
「人が使うために存在する」のであって、
決して人は利器のために存在しているのではないってこと。
文明文化は人が築いていくものであって、
文明のために人が存在するのではない、
ということをよくよく考えてみることいいかもしれへん。