報道はお手軽、低予算のドラマかもしれない

災害地でのマスコミのモラルが取りざたされていますよね。
「人としてろうだろう」と思う行動もありますね。

マスコミ(TV・新聞など)の在りようやその報道の歴史については
イロイロと個人的に思うところもありますが、一言で語るには
なかなか難しいですね。

TV局…と言うか、番組にかかわるすべての人にとって、
「事件・事故・災害」などの出来事は「降って湧いたネタ」という
感じでしょうか…。

現在TV番組自体がネタ切れであることは周知の事実ですが、
つまりは「出尽くした」と言えると思います。

そのような状況の中「事件・事故・災害」は
「誰もが起こった時点で初めて知る内容で、想定外の内容」
つまりは多くの人にとって「新鮮な出来事」となるでしょう。

要は「局側が苦心して知恵を絞らずとも “勝手に” 皆が注目する出来事」
「安易に入手できるネタ」ということになるのです。

さらに「事件・事故・災害」など、恐怖心を伴う出来事は、
人の危機回避本能を刺激し易いのは誰にも分かることかと思います。

なので、「事件・事故・災害」は「注目度が必然的に高くなるネタ」
という局側にとっての恩恵がまず一つ。

次に、どんな番組ドラマであれバラエティーであれ、セットや何やら
TVに映るその全てに何らかの予算が必要、ということです。

で、そういう風に作られる番組に比べれば、「現地取材にかかる費用」は
気になる金額ではないのは予測できる範疇です。

仮に滞在費や人件費に少し予算が多くかかっても、注目度が高い
内容であれば視聴率も上がります。

ですので、これは局の仕組みを考えれば、イコール比例予算、という
ところで折り合いがつきますよね。

あとは、番組の作られ方の部分です。

個人的にはここが最も重要だと思っているのですが、実際には
説明しづらい部分でもありますね。

結論から言えば「編集ありき」なんですよ、取材って。

事実の取材に対して、一般に我々の感覚で思う編集は「まとめ」
あるいは「要約」に近いと思いますが、どうでしょうか。

ただ例えばTVの編集の場合、「ねつ造」と言うには語弊がありますが、
コラージュあるいはリフォームとか…、要は「あるモノを使って組み替える」
こういうニュアンスに近いものを私は感じます。

映像や音声のつなぎ方や加工の仕方によって、見る人に対しての
様々な演出(思わせぶりな刷り込み)が可能なことは周知の事実で、
実際の現場でも細かい作業が行われています。

それは意図的な場合もあれば、無意識的な場合もあります。

このことを少し補足すると、ここで言う刷り込みとは、サブリミナル的な
事ではなく、語らずして語る、ということです。

人の錯覚を利用する…と言うのが近いかもしれません。

映画が分かりやすいですね。

例えばホラー映画で「夜の庭」の場面があったとして、
その瞬間に何とも不快で不穏な「怖い音楽」が流れたとします。

画面自体は「単なる夜の庭の景色」であるにも関わらず
観る観客は「その後に起こる怖い出来事」を感じ、その景色自体が
「ホラー」の一部であるかのような錯覚(あるいは思い込み)をおこします。

現実にはなにも怖いことなど起こっていないし目にもしていないにも
かかわらず、ということです。

とにかく、編集も含め、視聴者が目にする取材の内容はそういった
「意向」手が加えられていきます。

一つのドラマが作られる、そうとも言えます。

ただ、局側のかかわる人の多くは自分たちの行動がそういう流れを
作っていることに気づいていないように思います。

「そうすることは当たり前」な世界で、むしろ「いかにそうするか」
「そうしていくことこそ大事な世界」であるからです。

なぜそうなってしまっているか?というところにも理由はあるのですが
ここでは割愛します。

話しを戻しますが、事実(事件・事故などの現実)の内容が時間軸に沿って
常に進行していくとするなら。

それを「盛り上げる」だけでストーリーが勝手に展開するのです。

今、一部の人の間で少し話題になっているようですが
F局の番組「ミスターS」のキャスターMさんが、広島の被災地でおこした
非常識とされる行動も、まさに、この番組の在り方からすれば彼らの理に
かなっているのです。

むしろ、彼ら的には忠実で真面目で常識的くらいの行動かもしれません。

それは「ねつ造してはいけない」という倫理をまっとうしているにすぎない
大真面目な行動と言っていいかもしれません。

だから、
「現実や現実(材料)を集めるために」どこにでも踏み込みます。

「よりドラマチックにしていくために、ねつ造しないために、
現地の”本当に悲しみにくれる”被災者の悲しみの声」を収録します。

ちなみに、家中のMさんが救助隊の方に注意されているにも関わらず
「さらにリアルに取材を続けてしまった様子」から、実は彼こそが
目の前の現実をリアルとして認識できなくなっている一人ではないかと
思えるのです。

流れているMさんのとった言動の全てが「ドラマ」の登場人物そのもののように
思えます。

「静かに」と緊急の場面で注意されているにも関わらず、
ヒソヒソ声でしかもカメラ目線で

「静かにしないと救助犬が集中できず、大変なんだそうです」

なーんて、視聴者に語り掛ける…なんてこと、普通はありませんから。

そんなことして成り立つのって、「ドラマ」だけです。

TV関係者がそういう人ばかりではないと思っていますが、
そういう人が大半であることも知っています。

以前より「TVと思考停止についての関係や警告」のことは一部ネットで
言われ続けていることですが、実は彼ら送り手こそが思考停止している
可能性の方が高いのではないか、と個人的には思っています。

そのことに彼ら自身は気づいていないのではないでしょうか。

今回の場合「災害救助、行方不明者の捜索と人命救助が最優先」

というのがリアルな状況で一般人の感覚です。

しかし彼の正義は番組の進行にあり、事実、それを優先した結果が
今回の一連の騒動そのものとなっています。

思考停止は「思考できない」のではなく、「ある部分において認識できなくなる」
という方が近いかもしれません。

彼はうるさくしてはいけないので静かに話しましたが、
「そこに今、立ち入るべきではない」と言う認識ができなかったのでしょう。

また、他のセリフも聞きましたが、報道と見たことの感想の
違い自体も認識できなくなっているようでした。

そもそも「人命に対して自分ができること」と言う概念が
止まっている分、仕事=現実の正しい実況中継こそが使命であるかのような
錯覚にとらわれているのかもしれないな、と思いました。

まさに錯覚というところもTVっぽな、という感じです。

いずれにせよ。

私たちはTVをほとんど観ませんので偉そうに語れるものでもないのですけれど、
必要があって観る際は自分たちなりの観点から、TVの習性を理解した上で
情報を得るようにしています。

マスコミの在りようは、近年、やっと表面化してきていますが、
その在りようを受け入れ、拍車をかける存在あってこそ、という
ことも無視できない現実です。

そうやって作られていくことを望む人が多いほど、その風潮は
拍車をかけることでしょう。

その逆もしかりです。

望まれないカタチが存在していくことは難しくなるのがこの世の理です。

この世に何を望みどういうカタチを成していくかは結局私たち個人個人の
在りようにより流動していくのではないでしょうか。

「他者がどうしているか」ということよりも「自分がどうしているか?」
ということに目を向けていくほうが、何事も単純で分かりやすくなると思います。

他者に目を向けさせ根本を隠すというのは太古より使い古された手法でも
ありますしね。

内乱の危険を感じる首長が仮想敵国を作る図式もその一例です・笑。

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