「生まれてきた理由」とか「存在意義」を
何かに求めたくなることも普通だと思う。
その一つの基準として
自分の能力の優劣が気になっていたり。
けど、それこそ
「価値観の刷り込み、かもね。」と、
個人的には思うねん。
自分のしたいことを分かってる人はいい。
そこに「自己の価値でも存在理由」でも、
納得のいく形を求めたらいいし、
見出したらいいと思うから。
問題は「したいこと」を
見出せない人。
そういった「表面的な夢や希望」
みたいなものが存在せなアカンと
思わせる世の中こそが、幻想かも。
ただ生まれ死んで行く人生に
何の価値もないようなイメージは、
一体何が発端となったのか、
知りたいところではあるケド。
まぁ、
生きてるだけでまずは儲けモノ、
ってことや。
その神秘の幸せを存分にかみ締め
感謝するだけでも、人生の大半が
幸せだと気が付くよね。
特別な何かができたり、知っていたり
することのみが存在価値ではないと思うねん。
その特別な何かを使って、どう生きていくか、
そういうことが重要やのに、どこかで
すり替わったのかな、多分。
その「特別な何か」を限定し、しかも
それ自体に価値を持たせて、
「持てるもの」と「持たざるもの」に
分けたんやな。
時代劇ではないけれど、
「お天道様に恥じない生き方」こそが、
生まれた理由そのものでないと、
誰が言い切れるのか、という事かな。
ヒーローは分かりやすい。
その生き様を選べる人はそうしたらいい。
ただ、ドラマのヒーローですら、
全てを網羅しているわけではないねん。
多分、TVの前の良い子のみんなと、
画面の中の世界くらいが、その手に負える
範疇ではないか、ってことや。
だから、多種多様な人々として
個々が存在していると思うねん。
他人に認められる自分を望むのもいいケド、
まず、自分に認められる自分を
確立することが大切ではないかな、と思う。
自分を大切にできない人は、
他人を大切に出来るわけがないし、
自分を認めることが出来ないような人を、
誰が認めるというのだろうか、と単純に。
他者に認められる人こそ偉くて素晴らしい、
…という幻想は、どこかの誰かが
勝手に作った幻想かもね。
そんなもの押し付けられても困る。
ちなみに。
全ての人に「何らか」の能力はあり、
それはその人だけにあるもので、
必ず、それは世の中のためになるように
(存在できるように)使えたりするねん。
つまり、世の中を形成する上で
全ての人は確実に必要な人材ってこと。
その能力が発揮できる先は、目に見える
職種や仕事でないこともあるよね。
お金を得るための仕事をするためだけに
人は生かされているわけではないからね。
優劣しかない誰かの幻想のフィールドが
正しいと思い込み、惑わされる必要は
ないと思うねん。