例えばその人個人は単純思考のつもりでも、
実際の自分の本心を知ろうとすると、
意外に骨が折れることに気がついたりするねん。
これは、心の精査をするという環境がないので、
訓練されてないから、ということかな。
マニュアル志向の影響もあるのかな。
差し替えられた感情、差し替えられた本心、
差し替えられた人格を、「自分」と
認識してしまうことに気がついてないのかも。
かと言って、例えばマインドコントロールみたいに、
本当の自分がないような状態でもないねんけどな。
ただ、厳密には、一般に思われているような
マインドコントロールというのは存在せず、
ただ、マインドの中にコントロールしている側と
同調する要因が存在している、ということのようで
はあるケド。
まぁ、とにかく。
感情と本心は別な時がある、とか、思考と本心は
別な時があるとか、そんな感じかな。
だから、その自分の本心と培われた感情や価値観
みたいなものの心や思考の住み分けを見極めるまでが、
ちょっと複雑になってしまうことがあるのかも。
日本人の「本音とたて前」はあまり良い意味で
使われていないように思うケド、実はコレ、
大事やったんやなぁ、と、気がついたりもする。
つまり「本音(本心)は絶対に見失わずに
持っている状態」ということと
「周囲環境、集合意識の中で、調和をとるための
思考や言動」が存在した、ということやと思うねん。
こういった心の仕組みがかつての日本には
存在いていた、ということの証明かな。
本音とたて前の負の部分というか詭弁の解釈として
「嘘はいけないよ」という解釈が一般的かもしれない。
けど、本来の意味は
「本心を見失わずに、調和をとって行動せよ」
ということではないかと思うねん。
何が正しいか、という自分の筋を一本引いておけば、
それが自分の基準となる。
この基準を他の何にも求めず、何とも比べず、
ただ、自分の心が晴れ晴れとするような指針を
見つけるといいかもしれない、と思うねん。