いつもこの季節になると、今はもう
なくなってしまった、とある遊園地の
見事な枝垂桜を思い出す。
まだ、やまねぇともりねぇが出会う前。
けれど二人がそれぞれの人生で同じ時代に
同じ桜を見ていたなぁ…なーんてこと、
ふと思い出したり。
一緒にその桜を眺めることはなかったけれど、
その桜は、私たちの共通の歴史の証人でもある。
あの桜は大好きだった。
もりねぇは、もし自分が死んだら、
「自分の灰をあの桜の木の元にコッソリ
埋めてもらおう」って、本気で考えていた。
今、桜が見事だった遊園地は立派な住宅地に
生まれ変わり、あの桜は、毎年私たちそれぞれの
記憶の中で毎年咲き続けている。
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::::::加藤shanthi徳子先生のブログより引用:::
(前略)
桜は花を咲かせるために、生きているのではなく、
様々な季節の様々な時期を、
一瞬一瞬桜として存在することと、
命の続く限りその一瞬一瞬を紡いで
桜としての命を全うするために生きています。(中略)
桜が花を咲かせる時期は一瞬ですが、
桜はある一瞬やある状態を目指したり、
ある一瞬やある状態だけをを重要視することなく
どんな一瞬も同じようにただ桜として存在しています。そして「森羅万象の一部としての桜」
として存在すること自体を喜びの中で全うしています。
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「あぁ、あの桜もそうだったなぁ」と
改めて思い出す。
桜が満開に咲く季節は必ずその遊園地に
赴いた。
枝からこぼれるくらいの花を実らせたその桜が
いつもほころぶようにしてお客さんを出迎え
見送っていた。
もちろん、桜が咲かない季節にも赴いた。
枯れたように枝垂れ続ける枝に、次の年の
咲き誇る満開の花の幻想を見て楽しんだ。
花が咲いても咲いていなくても。
私が何かを想っても想わなくても。
あの桜は変わりなくお客さんを出迎え
見送っていた。
そこに佇むことを誰かに誇示するでもなく
桜であり続けた桜。
花が綺麗だと人々が勝手に喜ぶことにも、
花が咲かないと見向きもされないことにも、
何の躊躇もなく、ただ、桜であり続けていた。
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::::::加藤shanthi徳子先生のブログより引用:::
私たちもある一瞬のある状態を目指して、
それを達成することで得られる喜びだけでなく、
この一瞬を自分らしく生き、それを積み重ねること、
ただ自分を精一杯生きることに喜びを感じられるようになれば、
人生はより味わい深く、喜びと豊かさに満ちたものに
なるのではないでしょうか?
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そうだ、私は私を精一杯。
私達はめまぐるしく変わる外の
目に見える範囲の世界(外的刺激)のみを
基準に、自分を推し量ってしまうときがある。
そして、それ自体に目移りし、いつしか
自分でないものを追い求めようとしてしまう。
そうやって、気づかぬうちに幻想の基準に
自分を当てはめ、自分を見失うことも日常で。
だから正しくない私は悲しくなってしまう。
そして間違える自分は辛くなってしまう。
けれど、桜の花が一年中満開でないことは、
罪でも悪でもなく、正しいことでも間違った
ことでもない。
桜は桜。
そう、自分らしく精一杯。
花が咲くこともあれば、実を結ぶことも
あるだろう。
葉が落ち一糸まとわぬ枝の姿で
じっと春を待つ日もあるだろう。
桜の命のその瞬間の在りよう全てに
意味があると知れば、人の悩みの
大半は幻想であると気づけるかもしれない。
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※ハートの日光浴がしたいな、と思うときに。
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